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遥か昔、「ぼくのおばあちゃん」という題の作文で賞をとったことがあります。
賞、といっても町の主催の小さな、しかもその中の佳作ですから大したことはありません。
祖母は、姉の生まれる少し前に交通事故に遭い、複雑骨折した足にボルトを入れました。それからは杖をついて曲がらなくなった足を引きずりながら、先祖代々の畑を耕していました。そんな祖母のことを書いた作文でした。
僕の実家は古い農家です。田舎のそういう家にはありがちなことだと思うのですが、実家には祖母が暮らす母屋と、僕と姉、そして両親が暮らす離れとがありました。
我が家は父は会社勤め、母も実家の家業の手伝いで家を空けていることが多く、少年時代の僕が帰る時間、離れは鍵がしまっていました。今にして思えば鍵を渡しておいてくれればよかったのにと思いますが、まぁ昔からそそっかしい子でしたので母も不安だったのでしょう。
なので僕はいつも祖母の暮らす母屋に帰っていました。
祖母は僕を大変可愛がってくれました。
お腹をすかせて帰った僕にいつもおやつをくれました。
お菓子、庭でとった柿、桃、秋には焼き芋…。
成長して生意気になった僕が悪態をつくことがあっても怒ることもなく、いつもやさしく見守ってくれました。
大学を出ても定職に就かずに音楽をやっていた時も、がんばれと背中を押してくれました。
そんな祖母も、90も半ばを超えたあたりから少しずつ認知症の症状があらわれるようになっていきました。
母を忘れ、叔母を忘れ、父を祖父と呼び…やがて僕のことも忘れてしまいました。
認知症の症状が現れだす少し前、帰省した僕を見送る祖母の言葉を忘れられません。
「早く帰ってきいよ。もう待ってられへんで。」
その時は祖母が何を言っているのか、僕にはわかりませんでした。
祖母は先週日曜日に亡くなりました。
母からこの2,3日が山、と聞いた矢先のことで、僕は死に目に会う事は出来ませんでした。
あとから父に聞いた話では、父たち息子娘と妹夫婦に看取られて安らかに息を引き取ったということです。
大正、昭和、平成、令和と4つの時代を生きたのですから大往生ですし、晩年は古傷の足の痛みでいつも苦しんでいたので、今はただお疲れ様と、そういう風に思います。
でも、それがエゴだとわかっていても、ただ生きているだけであっても、おばあちゃんにもっとずっと居てほしかった、そう思う自分もいます。
おばあちゃんは僕を可愛がってくれました。たくさんの愛をくれました。
僕は何も返せませんでした。
おばあちゃんは僕が立派な大人になって、跡継ぎとして家に帰ってくるのをずっと待ってくれていました。
そんな姿を見せることも出来ませんでした。
後悔と寂寥がつのるばかりです。